
相変わらずのことながら、突然思い立って釣りに行く。昨日も夜討ち朝駆けで、深夜1時に家を出て帰って来たのは翌1時、しかも前回と同じくひたすら歩く釣りで昼寝なしのノンストップ釣行だったから、結局まるまる24時間寝ずだったわけだ。
放浪の旅に出ていた友人が久しぶりに帰ってきていて今年はまだ一度も釣りをしていないというのと、大先輩の釣り師が遠出の釣りに連れてけ、というので、じゃあボクと合わせて3人で行くか、てなわけで突然の釣行と相成ったわけである。朝食用のサンドイッチと昼食用のおにぎりをコンビニで仕込んでバッグに詰め、渓の入り口に車を停めてあとはひたすら釣り上がり、帰りは林道をこれまたひたすらてくてくてくてく歩いて帰ってくる、という釣りである。

帰りの林道では、とりとめもない話を独り言のように話し、3人でつぶやきつつひたすら歩く。
今日の渓はポイントの変化に富み、さながら日本の渓流の見本展のようだったので、友人はいたくお気に召したらしくしきりにあれこれと
「釣りをしながら、色んな渓で釣りしたことを思い出した。あ、この流れは○○川、あの流れは××川とか。」
ととても楽しそうに言う。
そしてひとしきりうきうきした後、少し間をおいてぽつりと付け足す。
「やっぱり釣りの現場に来るのはいいな。釣りをしていると色んな渓での釣りの思い出が鮮やかに甦ってくる。これは実際に釣りの現場に来ないと思い出せないから」
日常、思い出そうとすれば思い出せるが、それは雑多な日常のフィルタをかけられて、邪魔をされてしまう。たとえば色がとんだり、風のそよぎがなくなったり、匂いがしなかったり。純粋に釣りの思い出を頭に浮かべてその時の高揚感まで再現される、というのは、よほど鮮烈な記憶で、しかもある特定の“きっかけ”がないと、日常では不可能だと思える。少なくとも今のボクや友人には。
そう考えてから、ボクは友人に問うてみる。「じゃあ、釣りに行かなくても釣りの思い出をいつでも鮮明に思い浮かべることができたら、釣りに行かなくてもよくなるのかな?」
しばらく無言の後、静かに友人が応える。「そうかもしれないな」
ボクは、老成して達観することなど思いも及ばない。京都洛南の地に庵を結んだ800年前の下鴨神社の禰宜の息子のように川のほとりで川面を見ながらただ思索にふけり「ゆく川の流れは絶えずして」などと吟じる余裕はなく、流れを見たらいい歳して無邪気にはしゃぎ回り毛鉤を放り込まずにはおれない。そして、それはボクに限らず、ボクの友人たちもみなそうであるようで、その同じ性(さが)を他人に見るときにボクたち釣り人はようやく安心し解放されるのである。